久々に東京駅をしっかり見た。
静岡から都内入りする時は
大概、品川駅で下車してそこから山手線なりなんなりの
乗り換えとなる。
もしくは神奈川あたりで小田急線などに乗り換えて
新宿駅下車。
東京駅までいくと遠回りになるので
ほとんどいくことがなくなった。
なのでちゃんと、しっかり東京駅をみるのは
中学の修学旅行以来。
日本にこんな歴史ある駅があることに
とてつもなくほっとする。
そんなことを思ったあとは
東京ステーションギャラリーへ。
メスキータ展へ。
日本初展覧会である。
私は何故メスキータをしっていたのか。
しかしそのメスキータの最期をなぜ知っていたのか。
エッシャー展でみかけたのか
美術系のサイトでみかけたのか
とにかくメスキータの作品とメスキータの死をしっていた。
こういうのは正しい言い方とは思わないが
ファッショナブルなのである。
アートだけではなくデザインとしても
メスキータの作品は私のツボだ。
メスキータの人生の最期は
アウシュビッツのガス室。
歴史に詳しくない人でも
世界的に知っている人はたくさんいると思われる。
収容所の中でも一番ひどいとされていたアウシュビッツ。
これほどの才能ある人間が
戦争に殺されたのだ。
しかもそのあたり詳しくは調べていないが
収容所につれてこられて
いつも着用していた洋服を着て
死んだとは限らない。
人としての尊厳をうばわれた状態で
さらにガス室に詰め込まれて
才能ある人間が殺されたのかもしれない。
ただ死ぬ場所ではない、というのは
私にも想像は‥できる。
だからこそ作品をみていて
もちろんネガティブなイメージを持たせる作品もありつつも
動物を作品にしたメスキータ
花を作品にしたメスキータ
裸婦を作品にしたメスキータ
まさかその最期をむかえると
わかっていたら
あの作品達は誕生していただろうか?
そして
エッシャー達が作品を持ち出さなければ?
日本でのこの展覧会は開催できたのだろうか?
考えれば考えるほど
言葉にはできない感情がわきあがる。
版画について正直詳しくはないが
ステートがきちんと記載されており
記載されていることで
わかりやすかった面がある。
私だけではなく
見比べる人も多く感じた。
ここで魂がふるえるに行った後でもあったわけで
来場者に特徴を覚える。
版画をやっている年配層の
来場者が多いのだなと感じた。
団体の中には
版画の先生と思われる人が
生徒と思われる人たちに説明したり。
正直、観るだけみて教えは教室でやってほしい。
写真撮影OKの場所は1箇所のみ。
ラストの部屋。
順番をあえて混ぜたが
幕の前後、作品が違う。
そしてここではじめて
メスキータの年表をみれる。
私もこの記事でそう書いてしまったが
やはりアウシュビッツでの死の影響は大きい。
しかし年表をみていて
それがウリになっているような気になってしまい
ささやかな抵抗感をもつ。
3月11日にメスキータが死んだということ
そこから遠からずメスキータの子供も死んだということ。
死んだ日がわかっているだけでも
まだいい方だったのではないかと。
さながら
フィクションではない
人の愚かさが目の当たりに現る。
なので
私の鑑賞は大変、偏っているので
100%間違いではあるが
メスキータの作品を
かっこいい!と思えるのは
100%間違いではない。
何故かわからないけど
男性に指示されることの多い作品が多いのだと思う。
無駄な感傷に左右されるのは
私の性か。
私はくだらない人間なのだ。
もしも私の人生が順調で
あのままデザイナーの道を歩めたならば
きっと
メスキータから
インスパイアされただろうな、と思った。
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