来年はベートヴェンの生誕250年。
ラフォルジュルネでもベートヴェンが軸になる模様。
レッスンではすったもんもんもんだあって
もう一度テンペスト第三楽章を練習しているのだけど
急に悲愴第一楽章にはまった。
もちろんとても有名なピアノ曲なので
聴くことも多かったし
悲愴第三楽章を数年前、発表会で弾いた。
だからなぜ今更、はまったのか私自身もわからない。
悲愴第一楽章は
一人の作曲家
ベートヴェンが創った。
そのベートヴェンが創った曲を
各楽譜出版社が出版し
各ピアニスト達が弾く。
壮大な「音楽の樹」が存在しているのだ。
素晴らしい曲は誰が弾いても
たとえそれを私ごときが弾いても
そこが損じられる事はない、のが私の思想。
しかし今回、気づいてしまった。
色々なピアニストの演奏をきいて
私が選り好みをしていることを。
悲愴第一楽章を演奏するピアニストを
今日にいたるまで
多分10人は聴いた。
ピアニスト以外の演奏も入れると
20人はいると思う。
でもはまっているからこそもう一度聴きたくなって
だからといって
聴き続けている今
聴き比べをしてきた今
ただ悲愴第一楽章を
聴きたいんじゃない。
とあるピアニストの演奏が
ああ、もし自分がプロのように弾ける技術があれば
きっと私もこんな風に弾いたんだろうと
思うピアニストがいて
その人の演奏で聴きたい。
なんだかそれが私とっても楽しいんです。
なんていったらいいのかわからないけど。
と、同時に
なぜ演奏は自由だし
そして
その自由を選ぶ自由が聴く側にもあるのに
日常で自由はどうしてこれほどまでに不都合なんだろう
とも思う。
壮大な「音楽の樹」があるように
一つの可能性や思想や感情や日常が
本来「樹」を「枝」をのばしていきそうなのに
なぜいとも簡単に
樹からでた枝は伐採されるんだろう。
もっとも残酷なのが
己で伐採しなくてはならない瞬間で
私は私の「樹」を「枝」を何度
切り落とすのだろう。
切り落としたらそこに
切り落とした跡がのこるのは当たり前なのに
跡が残ることすら許されることはない。
今夜も悲愴第一楽章を聴こう。
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