REBORNを
何度多用したことか。
そうすることでなんとなく
ポジティブになれるような気がして
多用してきた。
私自身の中でのREBORNは
もっと重きものであったはずなのに
というジレンマ。
ただ3年前のREBORNは
現実的に”再生”となった。
17年とまっていた時計を
"再生”させたのだから
これこそREBORNと呼んでいいと思う。
あれ以外は
ジレンマを感じつつも
また私はREBORNという言葉を
引用した。
過去の楽しかったとか幸せだったとかの記憶
あとは
創作心を
たわしで肉をそぎおとし
骨の状態になっても粉になるまで擦ってきた。
その時にあった刹那を
残らず擦ってきた。
そういった気持ちや記憶や感情があったほうが
いいという人もいるけれども
そんなの残酷極まりない。
それが救いになるという人もいるけど
なんも救いにならない。
自分を追い詰めて絶望感に浸らせるだけ。
過去にすがるには
私の心は強すぎる。
かといって今にすがるには
私の心は弱すぎる。
未来にすがる自分は
存在しない。
だからよかった記憶も
暗く陰湿なものに変換をしてきた。
変換をしてそぎおとして
なかったこと、空想に近いものにすること
さもなくては
立ち上がることなどできなかった。
が
意図せず、寓意的な人体は
過去の私の中にあったものを
組み上げた形でもあった。
深い音によってお腹のそこからわきあがり
皮膚が浮き上がるような感覚の
高揚、興奮をどこにまけばいいかわからず
イコール”怒り”としてきた。
怒りが報われることなどない。
怒りは完結しない。
あの頃の感覚を
一度は削ぎ落としておきながら
その粉を床にはいつくばって
拾い集め
今の私が食べた。
私はその一貫を
REBORNとなづけることにした。
だから今
個展から続き
REBORNを意識することが多くなっている。
こんなことを考えてしまう
春はやっぱり嫌い。
でも
春はやっぱり美しい。